真宗大谷派とは

 親鸞聖人を宗祖とする、浄土真宗の一派。お東と呼ばれています。

京都府京都市、京都駅を北に出たところにある真宗本廟(東本願寺)を本山とし、

「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」を正依の経典とし、親鸞聖人が仏説無量寿経に基づいて教行信証を撰述して開かれた本願の名号「南無阿弥陀仏」を体とする往相・還相の二回向をその要旨としています。


本廣寺について

 本廣寺は、真宗大谷派に属する一般寺院です。現在、六代目になる藤伊 滋がこの寺をお預かりしています。

 このお寺は、ご門徒お一人お一人のものです。従って、ご門徒の中から選ばれた責任役員、総代が中心となってこの寺を支え、運営をしている「門徒のお寺」であります。

 親鸞聖人の開かれた真宗の「問法の道場」として、僧俗共に仏様の教えに逢う場所となればと考えています。

年間行事をご確認のうえ、どうかお寺に足をお運び下さい。


所蔵品・手の内の御書(闡如上人による写し)

 

 戦国時代の1580年、織田信長勢に囲まれた大阪の石山本願寺から粟津・波佐谷惣へ宛て、敵に見つからないよう小さな紙に書かれ、手の中に納まるほど小さく折り畳まれた手紙が届きました。後に東本願寺の第十二世となる教如上人の手による手紙の内容は、

 「私は一人寺へ残り、織田信長への抗戦を続けようと思う。あなた方各々は、その意を得た一宗の法流が続いていくよう、粉骨を尽くすよう・・・」 

というものでした。

 この手紙を受け取った加賀の一向衆は「この人を殺してはいかん」と手紙の主・教如上人を助け、本願寺は講和派と抗戦派、本能寺の変以降は豊臣側と徳川側の立場で西本願寺と東本願寺にそれぞれ分立していくことになります。

 この手紙は教如上人そのものであるとして、大正時代の中ごろまで粟津と波佐谷を駕籠に乗って往復し、それぞれの惣で「本御講」として勤められてきたといいます。しかしその頃より(手紙の文化財指定により?)お手紙が波佐谷惣の門外不出のものであると留め置かれることになり、当時の本廣寺住職が本山へ訴えたところ、教如上人の子孫である第二十四世法主・闡如上人がお手紙を書写したものを「これを代わりに使うように」と送って下さいました。

 しかし盗難などを恐れたのかお手紙は粟津でも門外不出のものとなり、それより90年余り、講自体も粟津では行われなくなってしまいました。

 御書の再発見と2014年の教如上人の400回忌を機に、教如上人の祥月命日である10月5日頃、教如上人忌を「本御講」として勤めさせていただいております。

 急度(きっと、急に)筆を染め候

今度、当寺と信長が一和の儀に就き、叡慮(後陽成天皇の配慮)に応えらる

すなわち御門主(十一代顕如)、紀州に御退出し候

然れば蓮如上人已来之に代わる本寺、此の度破滅すべき段、あわましく歎き入り候につき

我一身残り、是非とも(信長軍へ)相構へるべく思い立ち候事に候

各々その意を得らる一宗の法流、続き候ように粉骨を尽くし、忠節は抽(ぬき)んでて(大坂へ)馳走そうらえ。

併せて聖人への報謝は仏法を再興せしめんことに就き候はば、

法義たしなみ、称名念仏油断あるまじきこと肝要に候

 猶(なお)、按察法橋に申し出るべく候

                                      穴賢々々

五月二十五日

                                      教如(花押)

粟津惣中

波佐谷惣中


本廣寺の寺坊名の由来

 

 室町時代(1417年)の327日、浄土真宗第8世・蓮如上人の建立された吉崎御坊の多屋(参拝者の宿泊施設)で火事が起こり、吉崎は猛火に包まれました。

 

蓮如上人は経机の上に親鸞聖人直筆の教行信証「信の巻」を置いたまま持ち出せずにおり、それを知った本光坊了顕は猛火の中へ飛び入り、信の巻を見つけます。しかし火の手が回り退路を絶たれた本光坊は、止む無く自らの腹をかき切って聖教を押し込め、信の巻を守って絶命されたのです。

 

 (現在西本願寺所蔵の信の巻は「腹ごもりの聖教」「血染めのご聖教」として重要文化財に指定されています)

 

 本光坊の名前はそれから東本願寺側としては吉崎の宿となる坊舎の名前として残り、吉崎の大火で消滅した後は法師旅館さんの勧めで粟津に移り、市内に同名のお寺があるため寺坊の名前を「本廣寺」と改め、現在に至ります。