手の内の御書の話

各々その意を得らる一宗の法流、続き候よう粉骨を尽くし、忠節は抽んで馳走候え…(あなた方各々はその意を得た一宗の法流が後の世へ続くように粉骨を尽くされるよう。また忠節の心のある者は、抜きん出て大坂本願寺へ急ぎ参られるよう…)
戦国末期、石山合戦中の大坂本願寺から粟津惣・派佐谷惣へ届いた、手の内の御文の一節です。
このお手紙を書かれた教如さんの命日である10月5日には粟津、派佐谷両町で毎年「本御講」というお講が毎年勤まっていたのですが、派佐谷町の町内会長さんとも相談した結果、今年は両町とも内勤めのみで参拝は行わない、ということになりました。
粟津惣は戦国時代、一向一揆の福井、朝倉氏側への最前線でした。粟津岳の岳山(だけやま)山頂からは白山連邦から加賀全体が見渡せます。泰澄大師は白山の御前が峰を十一面観音、大汝峰を阿弥陀如来と感得し、また大日や薬師等、如来や菩薩の名で雲上の山々を指し示したといいます。
十一面観音であり、死者の国を主催する伊邪那美でもある白山権現が導く雲海の向こうには、阿弥陀をはじめ大日、薬師と如来の名を冠する光り輝くお浄土がある…、というのが泰澄大師の感得された神仏習合の世界、ということだったようです。そんな白山のお膝元だったからこそ、真宗とも親和性があったのだろうとも思われます。
それらを望んでまた海側を見渡せば、加賀平野を一度でほぼ視界に収めることができるのです。粟津岳の山頂近くにあったという狼煙台の狼煙は派佐谷城の狼煙台へと続き、煙のリレーは鳥越まで続いていました。
ふもとの大王寺さんは当時は浄土真宗のお寺だったそうで、門徒が逃げ込んだせいで福井の朝倉勢に那谷寺がまた焼き討ちされてるぞーとか、加賀に何かあればその変化を小松側へいち早く伝えるのが粟津惣ということでした。
お手紙の宛先にお城のある派佐谷惣より粟津惣の名が先に出てくるのは、お城以上に大切、重要な場所として粟津が当時の教如さんはじめとする真宗門徒、また大坂人から思われていたことの証明なのだ、ということです。
石山合戦の最末期、大坂本願寺では織田信長からの講話の働きかけを受け入れるかどうかで11代顕如上人、(東の)12代教如上人との間で議論が起こっていました。近衛前久の働きかけもあり後陽成天皇の詔勅でもあり、組織存続のためにもこの講和は受け入れないわけにはいかない、という立場と各地の一揆を焚き付けておいて本願寺だけ一足お先に講話するのが許されるのか、長島一揆のこともありこの講話の申し出は信用できない、という立場に分かれ、後者の教如上人は本願寺の大勢が退去した石山本願寺に一人で残り、信長勢に見つからぬよう小さな小さな紙に文書をしたためて粟津惣、派佐谷惣等を宛名にこの手紙を送ったのでした。手の中に握れるほど小さい御文だったことから、「手の内の御文」「手の内の御書」などと呼ばれています。
このお手紙を受け取った加賀の一向一揆衆は「この人を殺す訳にはいかん」と手紙の主、教如上人を支援しました。この時に教如上人の本願寺と元々の本願寺の2つの本願寺の組織が誕生し、後にいわゆる東西両本願寺となって現代へと至るわけですが。
加賀の一向一揆衆は元々の本願寺の講話の決定にも背き、信長、またその地盤を引き継いだ天下人秀吉にも背き、後陽成天皇の叡慮にも背いたことになります。教如上人は家康と何度も面会し、関ケ原の合戦後に今の東本願寺の敷地を家康より寄贈され自身の本願寺、いわゆる東本願寺を新しく創設するのですが、それまでの間教如上人、お東側に付いた加賀の一揆衆は柴田勝家の侵攻、前田利家の入城と本当に過酷な道を辿ることになりました。当時の聞き書きでは、江戸時代になっても加賀の山の中には人っ子一人いない状態がしばらく続いた…とあります。その中で何が続き、今まで何が相続されて来たのか。
それほどのダメージを受けながら本御講は江戸、明治と途切れること無く粟津と派佐谷で勤められてきました。
その中で粟津では大正期から平成終わり頃までおよそ90年間中断されてきた歴史があり、中断、再開の歴史の中に自分もおりました。
「本人がその意を得た、本当だと思ったものが、後の世に続き相続されていくよう粉骨を尽くせ」というのは、やはり重い言葉だと思います。

 

次回の本御講はコロナ問題が治まってれば、このお手紙の書かれた日付、5月25日に派佐谷町の公民館で行われることになると思います。今回確認で粟津岳へも登って来たのですが、粟津と派佐谷の狼煙台で当日は鳥越まで続くような狼煙でも上げてみたら…、とか思いました。消防法の問題とかあって、実現は難しいのでしょうが。
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鐘の無い寺

 江戸時代も末期のことや。その頃の粟津に、鐘のないお寺があったんやと。

 「どうしよう。鐘の無いお寺なんてものは恥ずかしいものだ。さりとて、鐘は金属を大量に使う、高価なもの。簡単に作ろうといえるもんじゃない…」

 そこでその寺の坊さんは、粟津の町中を一件一件普請(ふしん)して回り、壊れた鍬や折れた釘に穴あき鍋釜、いらなくなった金物はないかと訪ねて回り、南部地区中から使われなくなった0円金物を集めたんや。そのうち鐘を作るためにお寺が金物を集めているという話も広まり、寄付してくれる人も出てくる。ついには、他の大寺に負けないような梵鐘が作れるくらいのたくさんの金物が集まったといや。

 粟津町と西原町の境目の山に、この鐘を鋳造した窯場の跡地がある。そこでさあお寺の鐘を鋳造するぞという時に、この寺の坊守さん(坊さんの奥さん)が、重そうな風呂敷包みを抱えて窯場を尋ねて来たんや。この坊守さんは橋立の回船問屋からお嫁に来た人で、その頃の橋立は北前船の交易ですごく栄えた町やった。

 「昔から、楽器を鋳造するときには本体の銅に銀や錫など重さの違う金属を混ぜれば、その音色は重なりあって素晴らしいものになるといわれています。

 私の親は嫁ぎ先が小さな寺なのを心配し、『生活に困った時には、これをカネに換えなさい』と銀のかんざしに錫(すず)の杯(さかずき)、金の髪留めなどたくさんの嫁入り道具を私に持たせてくれました。確かにお寺は思ったよりも若干微妙に少し割りと小さめではあったのですが、けれどここへ来てから、私は生活に困ったと思えることなど一度も無かったのです。これからのことは分かりません。しかしこれらの道具はただのおカネに換えてしまうのでない、仏様のために使おうと決めました。その時がまさに今なんだと思うんです」と、お嫁さんは持ってきた銀のかんざしや錫の杯に金の髪留め、全てを窯の中に流し込み、嫁入り道具の金物を全てカネに変えてしまったんや。

 こーーーん。    こーーーん。

 できあがった鐘の響きを聞いた人の記録もあるが、それはそれは鈴を鳴らすような素晴らしいもんやったといや。祇園精舎の鐘の声といい、お寺の鐘というのは一番最初にはお釈迦様の説法が始まる時の合図やったんやそうや。それからお釈迦様の残された説法、お経が勤まる決まった時間の合図に鳴らされるようになった。重誓名声聞十方、じゅうせいみょうしょうもんじっぽうといい、仏さんの「お前を救わにゃおれん」という思い、誓いがちゃんと十方の衆生に聞こえ伝わるように、お寺の鐘というものはあるんや。

 こーーーーん。     こーーーん。

 お嫁さんはこれが自分の仕事やとして坊守をしながら毎日毎日朝昼夕方、台風の朝は大風の中を、大雪の朝は屋根雪を掻き分けながらも鐘を衝き、粟津の村じゅうに美しい時の声を伝え続けたんや。明治、大正、昭和とその鐘は代々伝わり続けたんやが、しかし太平洋戦争も終盤になると金属回収令で鐘は軍部に接収され、とうとうそのまま飛行機やら鉄砲の弾やらに変えられてしもうた。終戦後の昭和22年に、島町のコマツ鉄工所から新しい鐘を作って粟津へ運んどる時の写真があるんやけど、本当にみんな嬉しそうにしとるね。踊っとる人もおる。それは戦争が負け込みはじめてからこの時まで、村からずっとこの寺の、村のもんと坊守さんで作ったこの鐘の音が失われていた、それが帰って来るからなんやろう。

 鐘の無い寺は、かくして鐘の鳴る寺になったんや。粟津町に伝わる、鐘の無いお寺のお話でした。

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小山田に伝わる話「蓮如椿」

 小山田町に伝わるお話です。

 浄土真宗の8代目になる僧・蓮如上人(1415~1499年)は、布教のためこの周辺に逗留していたことがありました。そして上人はこの地を去る際、

 「今は赤い椿だが、白い花が咲くようになる」

 と言って裏山の赤い椿の木の枝を手折り、地に挿していかれたそうです。その言葉通り、その赤い椿より挿された椿の枝からは、不思議なことに毎年白い花が咲くようになりました。

 「蓮如椿」と呼ばれるようになったそれは、以来村人に大事に育てられてきました。蓮如上人の四百五十回忌の折には玉垣とともに「蓮如上人御手植之椿」と書かれた石碑が建てられ、樹齢五百年を過ぎた今でも、毎年白い花を咲かせています。この冬も、きっと白椿は小山田を訪れる人を迎えてくれることでしょう。粟津から北浅井辺りへ向かうなら新8号線(産業道路)を使うのも小山田峠から東山を通るのもそう時間的に変わりませんから、気が向いたら一度訪れてみて下さい。蓮如椿は小山田町の住宅街を抜ける寸前、一番奥の十字路を右折した所にあります。 

 この蓮如椿には、不思議な云われがあります。椿の世話を託されている小山田町の村中他家雄さんによれば、

 「この白椿は、いくら接ぎ木して育てても咲く花はどれも赤くなる。信心をまことに得た人が接ぐと白い花が咲くといわれているが、いまだ白い花を咲かせたという話は聞いたことがない」

 のだそうです。町民たちはこの不思議な白い花をお内仏にお供えして手を合わせ、

 「椿が枯れずに立派に育てば、仏法は栄え、真宗はすたれない」という言い伝えと共に、この木を大切にしています。

 

         出典・加南地方史研究会「加南地方史研究37号」 より

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白山と、お墓の話

 西暦538年の日本への仏教伝来以降、奈良の都では次第に火葬の習慣が広まっていきました。儒教の影響や燃料不足などで奈良時代以降は廃れていくのですが、706年には持統天皇が天皇家で初めて荼毘に付されています。そして続日本記によればその年、慶雲3年に白山が噴火しているのです。
 この時代、白山はイザナミの宿る山と考えられていたようです。奈良の吉野山や高野山からも白山は眺められているのですが、そこから登ったであろう噴煙は、都からは神々の巨大な野辺の送りのようにも見えたのでしょうか。また白山頂上へと続いていく煙は、貴人が亡くなった時にたなびくとされる、人を浄土へ乗せ導く紫雲になぞらえられたのかもしれません。
 都から鎮護国家の法師に任じられて白山へやってきたというかの泰澄大師も、石川版の伝説では手取川扇状地の要にあたる安久度(あくど)の淵にて、まさにイザナミの化身の夢告に会い、「私の真の姿を見たければ白山山頂へ来たれ」と勧められた、というお話が残っています。日本神話でイザナミは黄泉の国、イザナギは生者の国をそれぞれ菊理媛の仲介によって主宰することになるのですが、古代日本においては白山が命尽きた人の向かうイザナミの山だったようなのです。
 神仏習合といい、泰澄大師の時代には、日本の神々は如来が人々を導くために仮の姿で現れた姿なのだ、と受け止められるようになりました。例えば都の民衆にはイザナミとして現れる白山権現は、また地元の豪族には比咩神(ひめかみ)として現れ、また住民には水害、火砕流、熱波など九の頭を持つ荒ぶる九頭龍王として現れ、しかしてその実体は十一面観音であり、衆生を救うために種々の方便をとって皆の前に姿を現しているのだ、というふうに。
 その後の日本では、白山をはじめとする霊山の奥は神仏の世界であり、現世においてその一生のご縁を尽くした人々は三途の川を越えて霊山の頂上へと向けて旅立ち、(頂上までの日数や行程の辛さは宗派によって意見が違うのでしょうが)、輝く雲海を越えてゆくその山の頂きには亡くなった人々を迎えとる御仏のお浄土があるのだ、とされるようになりました。人はそこで覚り・悟りを得て諸仏となり、残された人々をまた救済に向かうのだ、ともあります。いわゆる山岳信仰の始まりです。薬師岳、弥陀ヶ原のある白山の大汝峰(=おおなむち神は阿弥陀如来が本地、本来の姿だとされた)、大日岳など、如来や菩薩の名前を冠する北陸の山々の名は、そのほとんどが泰澄大師の命名によるものだとされています。
 仏教と同時に日本に伝わり、神仏と一緒に習合されてしまったのが、中国の道教です。道教では人の魂(心)と魄(肉体)が別れるのが人の死だとされ、お骨などを留めて儀式を行えば、魂はそこに招かれ再生するのだ、と考えられていました.。魂やお骨についての解釈は宗派により違いがありますが、ともあれお骨とは、亡くなった方が一生のご縁を全て尽くされたことを象徴するものです。亡くなった方々のいわゆる魂に触れ、お陰様となってくれた、お浄土へ帰られた諸仏と再び向かいあうための場所が、墓であり、廟でした。

 人々はその生活する村より三途の川に見立てた川の向こう、こちらを見下ろせる山の斜面にお墓を作り、家の中にはお内仏・お仏壇を作りました。仏となって帰ってきた先人達が、山の上から子孫の生活が見渡せるように、先祖に我々の生活が見えるように。またこちら側が、自らの背景に頂いている仏様の世界と向き合えるように。今ではそのようなことも少なくなりましたが、先人達が家へ帰ってくるとされるお盆などには、それこそ家族親戚中が集まってその日ををお迎えするというのが、昔よく見られた光景でした。それが日本の、白山信仰が背景に残る地域におけるお墓というものの、宗派を越えた一般的な姿だったのではないかと思います。
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蓮如柿。加岐、賀岐(平安時代の柿の当て字)

 富山県南砺市の真宗寺院・大福寺の太田浩史住職によると、福島県相馬市の民家の庭にある渋柿の約8割が「蓮如柿」「加賀柿」「富山柿」と呼ばれる蜂谷柿の一種なのだそうです。東日本大震災の少し前までは南相馬市の晩秋でも軒先にこれらの干し柿が一面に吊るされた光景が見られたといい、それらは江戸時代に北陸からの移民「入り百姓」がこの地へもたらしたものでした。

 1780年代、浅間山の噴火や世界的な冷害により天明の大飢饉が起こると、白河藩や笠間、宍戸藩、相馬中村藩など北関東の諸藩が行った施策の一つが「入り百姓」と呼ばれる国内で完結する移民政策でした。移民のほとんどは加賀藩や越後因幡の真宗門徒だったといいます。北陸は戦国時代からの人口爆発の地ですが、加賀藩などは江戸時代の初めにはもう既に利用できる平地という平地を水田に開発し尽くしてしまっており、千枚田なんてものまで出来ていた時代でした。その中で加賀に住む次男・三男家族などは開墾すべき新しい土地をどこかに探さなければならないわけです。そのような人々を勧誘して飢饉などで人口が三分の一にまで減り、耕作放棄地となった荒れ田・荒れ地へ招き、新田開発に農業技術指導などを行ってもらう。それが入り百姓の一つの目的でした。

 当寺白河藩主だった松平定信が越後の幕府飛び地領より真宗門徒を招致したのが入り百姓の始まりとされます。この成功により松平定信は老中筆頭に推挙され、寛政の改革が始まります。鬼平犯科帖にも出てきた人足寄場の制度や定宿を失った若者を農村へ帰す旧里帰農制、入り百姓による農村復興策等がここから始まることになります。この幕府領から幕府領への移民は平和裡に行われましたが、この後笠間藩や相馬中村藩などが行った他藩から他藩への移動、特に加賀藩などは税収が減ることになる走り人(無断での脱藩行為)を厳しく禁じていましたから、非合法な移民ということでその行動は慎重に隠密に行われました。一夜のうちに数家族が忽然と姿を消し、市振の関所を過ぎた後は昼は隠れて夜歩き、あるいは稲田や関東二十四輩の親鸞聖人の旧跡の巡礼者にまぎれ、草鞋脱ぎの寺と呼ばれる宿営地の寺を伝い歩いて関東を目指したのでした。

 相馬藩稲田の西念寺良水は加賀藩からの走り人、脱藩行為を主導、受け入れた責任を取って自刃するのですが、彼の子良恵はその書「入り百姓発端の記」の中で

 

 「ここに幸いなるかな、北国はおおよそ一宗の徒にして常に仏法を親しみ深きゆえ、人数も多く家業も激しき国風なれば、かの国に溢れる民俗を引き入れ、荒れ田を開発せしめ風儀をここに移さば、多くの幼童を養うといえどもその憂いなきを見習い、ついに因果の道理をわきまえん。因果をわきまえる人、自分の子を殺害してなんぞ快しとせん。ここに更に仁政を加えて彼れこれを以って正路に到らしめん」

 

 と記しています。北陸の真宗門徒は、子供は仏の子だとして、収穫の少なかった年は家族親子供平等に飢える、という風儀を選んでいる。そのため、子沢山の家であっても「凶作が来れば我が子を殺さねばならないのか」、と心配することが無い。彼らの風儀を見習って欲しい。間引き文化の中で生活していたとして、我が子を殺して平気な親がいるはずあろうか。なんとかして間引きの風習を無くしたい、という目的があったことが伺えるのです。

 移民は背に生大根を背負い、大根には甘柿(富有柿)と渋柿(蜂谷柿)の二本の枝を挿していました。甘柿は挿し木接ぎ木でないと確実には増えないので、種でなく生枝を運ぶ必要があったのです。干し柿も干し大根は凶作の年を乗り越えるための優秀な冬の保存食です。干し柿になる渋柿はカラスなど他の動物にも食われず、日照り続きなどで凶作の年ほどよく実るといい、甘さは砂糖の1.5倍とも3倍とも言われています。時代考察の中で「日本の中近世は、砂糖をはじめ甘いものが希少な時代だった」と語られることが最近多いように思いますが、麦芽糖や麹による甘酒、米飴、干し柿などの果糖が無いもののように扱われていて、私などは違和感を覚えます。

 日本と柿の付き合いはとにかく長いです。弥生・縄文時代どころか人類誕生以前、岐阜の第三紀、6,500万年前の地層から柿の種の化石が発見されております。柿は日本原産の植物なのです。万葉歌人の柿本の人麻呂さん家には大きな柿の木がありましたし、平安時代には加岐、賀岐と記述され、遺跡の庭から大量の柿の種が発見されたりしています。室町時代にはもう庭木として一般化しており、茶道では干し柿の甘さは和菓子、練り切りなどの指標とされました。その幹は茶道具や傘、床柱などに、ヘタは漢方薬に、渋柿の渋には防腐効果などがあって和傘に塗ったり書物の保存に使われ、屋敷の塀の向こうに柿の木と土蔵が見えたらそのお屋敷には古文書がある、ともいわれていました。その葉も殺菌作用から柿の葉寿司などに使われています。

 加賀の門徒は、江戸初期の南加賀から上越・梅ノ木村への開拓移民や北海道開拓など、白山信仰、白山神社とセットになって日本の移民史のそこかしこに登場します。呼ばれて行った先では色々なことがあったのでしょうが、稲作だけに頼らない冬越しのために、彼らの行った先々では、晩秋になると軒一面に並べられた干し柿、干し大根の光景が見られたことでしょう。

 最近では、晩秋の風物詩であった吊るし柿、干し大根の風景も本当に見られなくなってきました。冬の山地を行けば、真っ白な雪の中、田んぼの向こうの山沿いに、巨大な柿の木が誰にも収穫されないままの朱色の実を天に投げかけています。桃栗三年柿八年といい、実になるまでは長年の付き合いをしないといけないのが柿の特徴でもあります。他の動物に食べられないようにとわざと渋を入れ、人々に向かってさあこれを取りなさい、とその実を差し出している。相馬での渋柿の別名が「蓮如柿」というのは、本当に出来すぎた話だと思います。渋柿も人間の歴史とともにあったんでしょうね、他の動物に種を運んで欲しければ、甘くなればいいわけですから。

 これだけの歴史と鈴成りの実を抱えた柿の木が、現状通り過ぎ見るだけの光景になってしまっているのは本当にもったいないことなのだと思います。

 

 

資料出展・太田浩史著「相馬移民と二ノ宮尊徳」より

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