所蔵品「手の内の御書」(東本願寺第二十四世・闡如上人による複写)
 戦国時代、1580年。織田信長の軍勢に囲まれた大阪・石山本願寺の教如上人より、粟津惣・波佐谷惣を宛て名に小さな小さな手紙が届きました。信長勢に見つからぬよう、掌に納まるほどの小さな紙に書かれ、折り畳まれて運ばれたことからこのお手紙は「手の内の御書」「手の内の御文章」などと呼ばれています。
「各々がその意を得た一宗の法流が続いていくように、粉骨を尽くされるよう…」
  (各々ソノ意ヲ得ラル一宗ノ放流、続キ候ヨウ粉骨ヲ尽クシ…)
 自分は一人寺へ残り、信長勢への防戦を続けるというこの手紙を受け取った加賀の一向衆は「この人を殺してはいかん」と手紙の主であり、後に東本願寺十二世となる教如上人を助け、これより本願寺はこの石山合戦での織田信長への 抗戦派と講和派、本能寺の変以降は徳川派と豊臣派という立場でそれぞれ東本願寺、西本願寺へと分立していくことになります。
 小松は加賀一向一揆 の里としてお東の門徒衆の非常に多い地域なのですが、このお手紙は浄土真宗の東西分派とそのきっかけとなるものであります。