小山田に伝わる話「蓮如椿」

 小山田町に伝わるお話です。

 浄土真宗の8代目になる僧・蓮如上人(1415~1499年)は、布教のためこの周辺に逗留していたことがありました。そして上人はこの地を去る際、

 「今は赤い椿だが、白い花が咲くようになる」

 と言って裏山の赤い椿の木の枝を手折り、地に挿していかれたそうです。その言葉通り、その赤い椿より挿された椿の枝からは、不思議なことに毎年白い花が咲くようになりました。

 「蓮如椿」と呼ばれるようになったそれは、以来村人に大事に育てられてきました。蓮如上人の四百五十回忌の折には玉垣とともに「蓮如上人御手植之椿」と書かれた石碑が建てられ、樹齢五百年を過ぎた今でも、毎年白い花を咲かせています。この冬も、きっと白椿は小山田を訪れる人を迎えてくれることでしょう。粟津から北浅井辺りへ向かうなら新8号線(産業道路)を使うのも小山田峠から東山を通るのもそう時間的に変わりませんから、気が向いたら一度訪れてみて下さい。蓮如椿は小山田町の住宅街を抜ける寸前、一番奥の十字路を右折した所にあります。 

 この蓮如椿には、不思議な云われがあります。椿の世話を託されている小山田町の村中他家雄さんによれば、

 「この白椿は、いくら接ぎ木して育てても咲く花はどれも赤くなる。信心をまことに得た人が接ぐと白い花が咲くといわれているが、いまだ白い花を咲かせたという話は聞いたことがない」

 のだそうです。町民たちはこの不思議な白い花をお内仏にお供えして手を合わせ、

 「椿が枯れずに立派に育てば、仏法は栄え、真宗はすたれない」という言い伝えと共に、この木を大切にしています。

 

         出典・加南地方史研究会「加南地方史研究37号」 より

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蓮如柿。加岐、賀岐(平安時代の柿の当て字)

 富山県南砺市の真宗寺院・大福寺の太田浩史住職によると、福島県相馬市の民家の庭にある渋柿の約8割が「蓮如柿」「加賀柿」「富山柿」と呼ばれる蜂谷柿の一種なのだそうです。東日本大震災の少し前までは南相馬市の晩秋でも軒先にこれらの干し柿が一面に吊るされた光景が見られたといい、それらは江戸時代に北陸からの移民「入り百姓」がこの地へもたらしたものでした。

 1780年代、浅間山の噴火や世界的な冷害により天明の大飢饉が起こると、白河藩や笠間、宍戸藩、相馬中村藩など北関東の諸藩が行った施策の一つが「入り百姓」と呼ばれる国内で完結する移民政策でした。移民のほとんどは加賀藩や越後因幡の真宗門徒だったといいます。北陸は戦国時代からの人口爆発の地ですが、加賀藩などは江戸時代の初めにはもう既に利用できる平地という平地を水田に開発し尽くしてしまっており、千枚田なんてものまで出来ていた時代でした。その中で加賀に住む次男・三男家族などは開墾すべき新しい土地をどこかに探さなければならないわけです。そのような人々を勧誘して飢饉などで人口が三分の一にまで減り、耕作放棄地となった荒れ田・荒れ地へ招き、新田開発に農業技術指導などを行ってもらう。それが入り百姓の一つの目的でした。

 当寺白河藩主だった松平定信が越後の幕府飛び地領より真宗門徒を招致したのが入り百姓の始まりとされます。この成功により松平定信は老中筆頭に推挙され、寛政の改革が始まります。鬼平犯科帖にも出てきた人足寄場の制度や定宿を失った若者を農村へ帰す旧里帰農制、入り百姓による農村復興策等がここから始まることになります。この幕府領から幕府領への移民は平和裡に行われましたが、この後笠間藩や相馬中村藩などが行った他藩から他藩への移動、特に加賀藩などは税収が減ることになる走り人(無断での脱藩行為)を厳しく禁じていましたから、非合法な移民ということでその行動は慎重に隠密に行われました。一夜のうちに数家族が忽然と姿を消し、市振の関所を過ぎた後は昼は隠れて夜歩き、あるいは稲田や関東二十四輩の親鸞聖人の旧跡の巡礼者にまぎれ、草鞋脱ぎの寺と呼ばれる宿営地の寺を伝い歩いて関東を目指したのでした。

 相馬藩稲田の西念寺良水は加賀藩からの走り人、脱藩行為を主導、受け入れた責任を取って自刃するのですが、彼の子良恵はその書「入り百姓発端の記」の中で

 

 「ここに幸いなるかな、北国はおおよそ一宗の徒にして常に仏法を親しみ深きゆえ、人数も多く家業も激しき国風なれば、かの国に溢れる民俗を引き入れ、荒れ田を開発せしめ風儀をここに移さば、多くの幼童を養うといえどもその憂いなきを見習い、ついに因果の道理をわきまえん。因果をわきまえる人、自分の子を殺害してなんぞ快しとせん。ここに更に仁政を加えて彼れこれを以って正路に到らしめん」

 

 と記しています。北陸の真宗門徒は、子供は仏の子だとして、収穫の少なかった年は家族親子供平等に飢える、という風儀を選んでいる。そのため、子沢山の家であっても「凶作が来れば我が子を殺さねばならないのか」、と心配することが無い。彼らの風儀を見習って欲しい。間引き文化の中で生活していたとして、我が子を殺して平気な親がいるはずあろうか。なんとかして間引きの風習を無くしたい、という目的があったことが伺えるのです。

 移民は背に生大根を背負い、大根には甘柿(富有柿)と渋柿(蜂谷柿)の二本の枝を挿していました。甘柿は挿し木接ぎ木でないと確実には増えないので、種でなく生枝を運ぶ必要があったのです。干し柿も干し大根は凶作の年を乗り越えるための優秀な冬の保存食です。干し柿になる渋柿はカラスなど他の動物にも食われず、日照り続きなどで凶作の年ほどよく実るといい、甘さは砂糖の1.5倍とも3倍とも言われています。時代考察の中で「日本の中近世は、砂糖をはじめ甘いものが希少な時代だった」と語られることが最近多いように思いますが、麦芽糖や麹による甘酒、米飴、干し柿などの果糖が無いもののように扱われていて、私などは違和感を覚えます。

 日本と柿の付き合いはとにかく長いです。弥生・縄文時代どころか人類誕生以前、岐阜の第三紀、6,500万年前の地層から柿の種の化石が発見されております。柿は日本原産の植物なのです。万葉歌人の柿本の人麻呂さん家には大きな柿の木がありましたし、平安時代には加岐、賀岐と記述され、遺跡の庭から大量の柿の種が発見されたりしています。室町時代にはもう庭木として一般化しており、茶道では干し柿の甘さは和菓子、練り切りなどの指標とされました。その幹は茶道具や傘、床柱などに、ヘタは漢方薬に、渋柿の渋には防腐効果などがあって和傘に塗ったり書物の保存に使われ、屋敷の塀の向こうに柿の木と土蔵が見えたらそのお屋敷には古文書がある、ともいわれていました。その葉も殺菌作用から柿の葉寿司などに使われています。

 加賀の門徒は、江戸初期の南加賀から上越・梅ノ木村への開拓移民や北海道開拓など、白山信仰、白山神社とセットになって日本の移民史のそこかしこに登場します。呼ばれて行った先では色々なことがあったのでしょうが、稲作だけに頼らない冬越しのために、彼らの行った先々では、晩秋になると軒一面に並べられた干し柿、干し大根の光景が見られたことでしょう。

 最近では、晩秋の風物詩であった吊るし柿、干し大根の風景も本当に見られなくなってきました。冬の山地を行けば、真っ白な雪の中、田んぼの向こうの山沿いに、巨大な柿の木が誰にも収穫されないままの朱色の実を天に投げかけています。桃栗三年柿八年といい、実になるまでは長年の付き合いをしないといけないのが柿の特徴でもあります。他の動物に食べられないようにとわざと渋を入れ、人々に向かってさあこれを取りなさい、とその実を差し出している。相馬での渋柿の別名が「蓮如柿」というのは、本当に出来すぎた話だと思います。渋柿も人間の歴史とともにあったんでしょうね、他の動物に種を運んで欲しければ、甘くなればいいわけですから。

 これだけの歴史と鈴成りの実を抱えた柿の木が、現状通り過ぎ見るだけの光景になってしまっているのは本当にもったいないことなのだと思います。

 

 

資料出展・太田浩史著「相馬移民と二ノ宮尊徳」より

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