1533年  大阪・石山本願寺開基.。蓮如上人が隠居先に選んだ地であった
1554年頃 那谷寺より、本願寺顕如へヒスイの玉が贈られる
1558年  教如、本願寺顕如の長男として誕生
1564年 福井の越前朝倉氏から逃げてきた一向宗門徒を差し出さなかったため、
      那谷寺が朝倉氏より焼き討ちされる。朝倉氏は大聖寺まで進出
1567年     足利義秋(義昭)の仲介で、朝倉氏と加賀一向一揆が和解
1568年  織田信長、足利義昭を擁し京都へ上洛
       信長は顕如へ石山本願寺の明け渡しと
        矢銭(弓矢代、戦争の費用負担)を要求
1570年  織田信長と石山本願寺との10年に渡る石山合戦が始まる
1574年 三重・長島一揆の崩壊。長島側は信長へ和睦を申し出て受理されるも、
      退却時に信長軍に包囲されて徹底的な追撃を受け、全滅したという
1580年4月 顕如と信長が講和。石山本願寺が信長側に譲渡されることになる
   5/25 教如は信長による和睦の提案が長島と同じで信頼に値しない罠だと
      講和に反対し、抗戦派と講和派で本願寺の勢力が二分される
      顕如ら講和派は紀州(和歌山)雑賀衆のいる鷺の森へ退出
      教如、「手の内の御書」を粟津惣・波佐谷惣へ送る
       加賀一向一揆が呼応し、加賀より大阪へ援軍が送られる
      顕如、教如を義絶(親子の縁を切る)
   8月 石山本願寺炎上 教如、流浪の生活へ
1582年6/2 織田信長、本能寺の変で自害
   6/27  秀吉、清洲会議で信長の地盤を引き継ぐ
   同日 後陽成天皇の仲介で、顕如からの教如への義絶が解かれる
1583年     大阪城、 石山本願寺の跡地に建立される
1592年   顕如死寂。豊臣秀吉の任命で、教如が十二代法主へ
1593年        豊臣秀吉の任命で、三男の准如が十二代法主へ
教如は隠居を命じられるが、以降 本願寺法主が実質的に二人いる状態が続く
1595年  教如上人より能美郡四講(小松市)へ郡中御影が贈られる
1598年  秀吉死寂。教如の隠居先である北の御所へ徳川家康が訪れる
1600年 関が原の戦い。准如は西軍石田光成側へ、教如は東軍家康側へ
      教如の隠居先である北の御所へ徳川家康が訪れる
       豊臣神社など豊臣側と見做された寺社が徳川政権により解体・
     廃絶されていく中、教如は本願寺十二世への復帰を要請されたが、
     「准如上人を長年支えてきた組織を中央より追い出す形になれば
     本願寺内部にまた対立・混乱が起こる」として提案を拒否、逆に
     石山時代からの教如派の受け皿となる本願寺の設立を申し出ている
1602年  徳川家康、教如に七条烏丸の地を寄進
1603年  妙安寺より親鸞聖人木像を迎え、七条烏丸の地に教如上人を
      十二代法主とする本願寺、いわゆる「東本願寺」が成立する
     准如上人を十二代法主とする堀川通の本願寺の東にあったことから、
     それぞれ東本願寺、西本願寺と呼びならわされるようになる
1615年  教如死寂