官知論とは、勧進帳という歌舞伎の舞台では判官役を務め、応仁の乱では兄弟に別れ争った加賀の名門富樫氏が、一揆によって加賀から追い出されたあらましを描いた物です。一揆の数十年後か、何があったのかを後世の人間に書き示すために著者が色々聞き取りを行ったということのようですが、富樫側の子孫がこちらに伝わる資料と符合すると証言し、書かれていない資料を付け加えていたり、色々な人々の視点が混じっていて面白いです。中国の故事などが時々合ってたり間違った形で引用されてたりするのもご愛敬的な特徴です。甲陽軍鑑という武田信玄、勝頼の時代の話がしれっと出てくる版があったり、編集された時代には議論があるとされます。

 

 鎌倉時代あたりの加賀武士団の頭領といえば木曽義仲に仕えた林城の林六郎ですが、林氏は1221年の承久の乱で後鳥羽上皇に味方したことで没落していきます。それに代わって勢力を伸ばしたのが富樫氏で、1338年に足利尊氏の家人となることで加賀の守護に任命されています。そして1460年代、加賀の国の守護であった富樫政親は、応仁の乱が起こると細川勝元側の東軍に与し、山名宗全側の西軍に与した実の弟・富樫幸千代に敗れて1473年、加賀を追われました。 富山の朝倉家へ逃げ込んだ富樫政親は、当主の朝倉敏景が蓮如と同盟を結んでいたことから蓮如と加賀武士団の門徒を味方につけ、本願寺などの援助、加賀国内における武士団の支持を得て弟幸千代を蓮台寺城で破り、加賀の守護に復帰します。弟を加賀から追い出すことに成功し、再び家督の地位に就いた正親ですが、出兵続きで働き手を失い荒れ果てた土地から例年通りの租税を徴収しようとしたことで加賀では農民一揆が起きました。そこで主君へ反抗するのは逆賊のすることである、と富樫政親は今度は農民たちを討伐しようと画策、幕府へ討伐の許可を願い出るのです。そこから官知論は始まっています。

 本文中で富樫政親を諌めている加賀守護代の山川三河の守は、1487年に粟津保に目年貢米200石、人扶100人を課し、領家の蔭涼軒の要請で15貫200文に減額させている、とありますね。地元出身の代官が兄弟間で争い、追い出された側が蓮如上人と加賀武士団の力を借りて勝利し、その戦争費用を加賀武士団に要求、減免を要求すると逆賊だとして討伐を画策してくるということですから、林氏をはじめとした地元の反発は然るべきなのだろうと思われます。

 序文のひそかにおもんみれば、は親鸞聖人の教行信証の総序からの引用ですね。仁義礼智信の五常は二宮尊徳の五常講などで有名ですが、仁によって施しが行われると、義によって人はそれに応えようとし、礼の心を以てその姿勢を正し、智の心を以てそのあたわりを生かすようになり、それによって人の間に信が生まれる。儒教の徳を由来とする考え方です。世のためを思わない為政者、徳を失った政治は民によって討たれるべき、という易姓革命の思想が少なくとも当時の日本海側にはあったということもこの官知論から読み取れると思うのです。

 

                 官知論

 

                  

 

 ひそかにおもんみれば、人臣の最も大切にすべき儀はまず 仁、義、礼、智、信 の五常であり、礼、楽、射、御、書、数 の六芸は一番後回しにすべきものである。主君に仕え奉るには忠を、民を治めるには徳を以ってすれば良賢となり、それに背くものは逆臣となる。

 故に先の哲人の残された教訓の要旨を掴み後世の人間のための戒めとするものである

 

        1  富樫殿が近江の六角高頼征伐に従軍すること

 

 

 

 ここに近江源氏の末裔である佐々木大膳大夫六角高頼は、幕府をないがしろにして独断で事を起こす者であった。 あまつさえ公儀に反逆する賊どもと通じて 野心のある者を部下に引き入れ、謀叛を企てていた。 前漢の王莽が国を掠め取り、大唐の安禄山が唐都を陥れようとしたものになぞらえんと欲したのである。

 

 

 

 これによって去る長享元年(1487)戌申秋8月上旬、かたじけなくも天皇は六角高頼討伐の宣旨を下さり、翌月、足利9代将軍義尚は勅命を受けて江州・近江甲賀郡に進発した。御供の軍勢は、斯波義寛、細川政元・元有、畠山尚順、土岐政房、山名俊豊、赤松政則党の代人、大内政弘、京極政経・高清、上杉の代人、小笠原、武田国信、富樫介その他諸外国の受領や衛府の諸司は一騎残らず立ち上がり、また北陸の余勢、西国の義軍も底を払って出陣した。都合十万余騎の大軍である。 中でも富樫次郎政親は容儀・骨柄に優れ武芸にも秀でており、強き弓の精兵を率いる大力究竟の荒馬乗りだった。 まことに「千人の雑兵は簡単に集められるが、一人の将は求め難い」ものである。 このため将軍の上意にかなうこと、彼に肩を並べその威を争うほどの人はいなかった。 今回の近江征伐においては、軍奉行として御供衆の武田国信と外様ながらも富樫政親が抜擢され、富樫家の面目前代未聞なり、と人々は言い合ったのである。

 

 

 

       2 富樫政親が加賀一向一揆を退治する計略のこと

 

 

 

 平家物語にあるように、命運が尽きてまさに滅びようとする時、人は必ず悪事を思い立つものである。 富樫政親も将軍の上意を重んじて万民を大切に育て、彼らの心配のまなざしを解いてやれば「上が和めば下も睦み合う」という十七条憲法の聖徳太子の言葉どおりであるのに、政親が領地で虐政を行ってしまったために、領民は彼に従おうとしなくなってしまった。小さなことだとこのことを思っていたが、秋終わりの草のように富樫家が絶えてしまう原因になるとは、と後になって思い知らされることになるのだ。

 

 

 

 政親は折にふれ、幕府将軍足利義尚に領国のことを嘆き申されていた。「それがしが分国の加賀の土民らは専修念仏の一宗を立て、これに励むばかりで領主への上納を少しも納めようとしません。あまつさえ徒党を組み、郡の中に各々一揆を結んでさえいるのです。 緩怠邪儀の至り、言葉に尽くせませぬ。ですから隣国の越中・越前の両国に御教書を下され、我が領地の農民を倒すため力を合わせよとの御下知を仰せ付けられれば、今日にでも帰国して一揆の農民を残らず退治し、宿望を達したく思います。」

 

 

 

 政親は言葉巧みに将軍義尚を乗せあげ、越中越後の両国へ加賀領主への協力を下知するよう仰せつけられた。 この下知を得て政親は将軍に暇乞いをし、同年12月24日、北陸の深雪を踏み分けて領国の加賀の国へ下ったのである。 厳冬の長征は「雪中に放った馬の足跡を追って道を求め、雲の彼方に雁の声を聞いて、夜空に矢を射てこれを射落とす」の和漢朗詠集の詩、中国は斉の管仲が 雪中に迷ったときに老馬を放って道を求めた韓非子の故事どおりの困難の旅であった。

 

 

 

            3 高尾山に城郭を構えること

 

 

 

 かくて加賀北部における水陸交通の要衝である野々市の守護所に戻った政親はしばらくも在府の儀に及ばず、同じ石川郡で守護所の4キロばかり南にある高尾山に城をしつらえて立て籠り、隣国の加勢をいまやいまやと待ちわびながら、一揆退治の計略を本陣の中でめぐらし、鬨の声を千里の外に聞かしめんと欲していた。

 

 

 

 高尾城のありさまは、後ろ口は白山に続く険阻な峰々を削り、白雪は夏でも消えず、続く険しく細い道を閉ざしていた。 城の前には深田はるかに広がって果ては河北潟に続き、敵軍がかくれて人馬を並べる場所さえない。城の左手の渓谷は岸壁も高く行き来する道もなく、右手は伏見川が豊かな水量を遠くまでみなぎらせ、その急流は往来の船の侵入を困難にしていた。 のみならず城の外には堀をめぐらし陣地を構え、城の角隅には矢倉をあげ、ところどころに楯を並べて板塀とし、所々に乱杭や逆茂木(イバラの枝を結った垣)を作り置き、弩(いしゆみ) を何重にも配置していた。  あたかも斉の名将田単が築いた即墨の城にも勝り、越王・勾銭の作った会稽の要害をも越えるような様だった。 天運のもたらした要害とはいえ地の利に勝るものはなく、まことに素晴らしい城郭であった。

 

 

 

 立て籠る軍兵は富樫一門は言うに及ばず、国中の守護方武士は一騎も残さず馳せ参じ、その他、大和・甲賀の強き弩の精兵、屈強の手練れ五百余人も加わり、与力の総勢は一万余人、それぞれの矢倉に所狭しと並び、各々袖を連ねて群集した。矢倉の下には鞍置き馬を十重二十重に引き立て、鬼神や魑魅魍魎(ちみもうりょう)でもなければ余程のことがなければ容易には落城させられまい、とさえ思わせられるものだった。

 

 

 

 

 

   4 一揆の者たちが政親に詫びること、また、山河三河守が政親を諌めること

 

 

 

 この様子を見た国中の一揆の者達は、富樫政親の重臣・山河三河守高藤に次のように何度も嘆願したのである。

 

 

 

「十四年前の文明六(1474)年、富樫のお屋形様が白山麓の山内から弟・幸千代を打倒するために出撃されてから後、国中で一揆に与した住民を排斥弾圧されることが続き、民は心休まる暇がありません。住宅を焼かれては山野に野宿し、在所を追い立てられ、やむなく砦を築いたこともありました。そのような間は春の田植え耕作もままならず、したがって秋の取り入れも少なくなってしまいます。 これによって年貢の完済もままならず、将軍様が諸国にかける諸税も納めることができなかったのです。 これらは私どもの怠慢によるものではなく、公職である守護殿に原因があるのです。 この事情をお聞き分けいただき、寛宥の心でお許しいただければ、我らはいっそう奉公の懇志に励むことでしょう。」

 

 

 

 山河三河守はこの話を政親に言上し、殷の紂王を諌めた名臣・比干や大唐の太宗に諌言した張蘊古などの故事を引いて、政親の殿に諌言申し上げたのだ。

 

 

 

「民はこれ国の基であり、これらを討伐されようとするようなことでは、国の枝葉である我ら武家も安穏にあることができません。 正義を以って国を治め、欲を捨てて民を慈しむことは、政道の安泰や天下の平穏を導くものです。 ですから史記には『義が欲に勝るときは、その国は自ずから治まり、欲が義に勝るときは、その国は必ず危うくなる』と言い、書経には『政治がまっとうな道に帰すれば、庶民は自ずから路を譲るようになる』とあり、十八史略には『直道の政治により、民草が天下太平を謳歌できる』と言うのです。

 

 

 

 それが間違った道徳を主とすれば、賢人と讃えられた比干が胸を切り裂かれ、宮廷に参内した者が脛を切られるような、殷の紂王の世のようになるのです。 人を殺す刃というものは、人の口から出てきて、人を傷つけるものなのです。 自分を害する種というものはまったく自分自身の中から出てくるもので、自らがこの種を蒔いているのです。

 

 

 

 韓非子の塩鉄論にも『聖王の宝は賢さであり、金品珠玉をもって宝とはしない』と強く教えられているのに、そうではなくして口がうまくおもねる者を要職に挙げ、朝な夕なに彼らがこちらに珍しい宝、あちらに名物がありますなどと申し上げるのを取り上げられて、それを手に入れようと身の丈に過ぎた金銀を費やし、またそれを世話した褒美と称して、口入れした輩にも綾羅錦繍、太刀などを賜っておられます。

 

 

 

 私は、たまたま重臣としての正道を心得、もし殿に意見を取り上げられることでもあれば、諌言申し上げよと同輩にも言われているのに、小人が常に側近にいて、『小人にはわからないことです。大人物である殿には、秦の始皇帝ほどの英雄風に振舞われるのがちょうど良いのです』などと、かえって諌めた者が誹謗されてし まい、それ以上お諌めする者もいないのです。 ですから悪は日々に増大し、善いことは月を経るごとに薄すろいでいくのです。

 

 

 

『功なくして賞するのは不儀の富であり、禍の元となる』などと甲陽軍艦に申します。 また『君主が家臣を土くれのようにしか見ないときは、家臣の方は君主を賊や仇のように見る』と、いにしえの孟子も言い残されています。 邪まな人物が政治におもだっていれば、賢人はそれに参画しようとしないものなのです。

 

 

 

 わが殿もこれからは邪臣をしりぞけ、寛仁大度の心で政治を行われれば、賢人は自然に集まって来ましょう。 『賢人を信じて腹心の者とすれば、民は自分の手足のように仕える』という孟子の言葉の如く、万民は君主の恩を感じて、今の憤りもたちまち収まりましょう。 ここのところをよくお考えになって下さい。

 

 

 

 殿がお若い頃、白山麓の山内にお引き籠られていたとき、民は一揆を結んで殿を政治の表舞台に押し出し、幸千代殿との戦いでは何度も戦功を立てて殿に尽力し、加賀の国主として仰ぎ奉ったことは、一揆の恩ではないのですか。 このような大きな恩義をお忘れになり、小人の歯の浮くような言葉を信じられて民草の訴えを取り上げなければ、加賀国や富樫のお家を栄えさせるという武家の望みは遂げら れません。

 

 

 

 恩義を受けてその恩を顧みなければ、草を食べる野鹿が草を踏みつけて、枝に巣をかけた鷺がその木を糞で枯らしてしまうことと変わらないではないですか。 前非を悔い、あとは先人の賢言に従えば、大日経疏にあるように箱と蓋がぴったりとはまるように善行の報いが余慶として富樫家に満ち、栄華を長く子孫に伝える基となるでしょう。 もし、四角い箱に丸い蓋をするようなことをされれば、目先の小利を貪って、後の大害を顧みない者どもと同じでしょう。」

 

 

 

 山河三河守はこのように筋道を立てて故事古伝を引き合いに出し、富樫の殿の着物の裾を引かんとするばかりに諌めたのだが、ついに政親が頷かれなかったことは、忌まわしくも情けないことであった。